あの後、すっかり元気を取り戻した金髪の乙女は、レンが頼んだ酒を片手に荒れていた。
「あははは・・・」
漆黒の髪を揺らす美しい顔立ちの青年は、終始苦笑いを浮かべて少女の話に辛抱強く相槌を打っている。
「だいたい、あの状況で記憶のない僕にどうしろっていうんだ。"歌手になりたかったか"なんて僕自身もわからないよ。シスカに芽生えた単一欲求が"歌"だってだけでも死ぬほど驚いたのに。」
据わった目でグラスを見つめながら饒舌に愚痴る少女は、実はこの街では運用の難航する現行最新型機械種を取り扱うことのできる貴重な機械生命工学者だ。彼女の手にかかれば、どんな機械種も本来の調子を取り戻す。実はかなり凄い人、なはずなのだが、今の彼女にそんな面影は微塵も感じられない。
荒れている原因は彼女が使役している"特別な一体"、「シスカ」の奇行にあるようだ。
「アンジェが機械種に手を焼くなんて、珍しいね。」
「シスカは特別製だ。今までの知識なんて何の役にも立たない。ああ、僕は、無能だ・・・。」
「アンジェが無能なら誰の手にも負えないよ。彼女は君の構成要素の47.1%を持っていってるから。好奇心旺盛なのは、君譲りなんじゃない?。」
落ち込む少女をそんなふうに慰めながらも、楽しそうに青年は笑う。
「その数字、聞く度によく助かったものだと驚くよ。君が助けてくれたんだろう?
僕は全く覚えていないが、まぁ、礼を言うよ。」
「・・・アハハ。君に感謝されるようなことは・・・何もしてないよ。」
明らかにばつの悪そうな顔で薄暗い店内の床に視線を落として、先ほどまでとは別人のように歯切れの悪い回答を口にする青年の周りに不思議な"蜃気楼"が舞い始めるのを、アンジェは視認していた。不安げに舞い踊るさめざめとした青い"胡蝶"が、彼の特大の地雷を踏み抜きかけていることを少女に伝えている。
「(今日もダメ・・・か。)」
少女は、平静を保つ努力こそしているものの内心激しい動揺を見せる青年には見えないように、自嘲気味な笑みを浮かべる。
―― 彼は僕の命を助ける為に、おそらく、人を殺している。――
四年前、機械生命工学に関する記憶以外のほぼ一切を失って、この斜陽の幻都の片隅で目を覚ました僕の傍には、医師だと名乗るレンがいて、そして僕と酷似した機械種の少女、"シスカ"がいた。
後に僕は、自分を必死に治療するこの青年が、"かつての僕"の研究チームの専属医師だったことを知る。
DEUS CRIMINAL+1=LEN MIYAMURA
それが、当時死にかけの僕がこの街で初めて見たニュース映像に映る、あまりにも衝撃的な彼の肩書きだった。
そんな状況に多少の混乱こそはあったものの、幸い僕の科学者としての"知識"は、当時の研究内容も含めてその殆どが無事だった。
だからこそ、僕は割と早い段階で、自分の身に何が起きたのか悟ったのだ。
あぁ、きっと僕は、《リトグラフス計劃》の最中、シスカになり損ねたのだ、と。
仮想領域上での人体構成要素の完全再現、謂わば"人間種不死計劃"の被験体。
DEUS CREATOR+=ANGELIQUE LE FAY
そう、僕はこの世で最も偉大な、《DEUS CREATOR》の称号を持つ、唯一の生存者だ。
と言っても、世間的には殉職扱い。ただの《機械生命工学者》から勝手に名誉階級に特進させられただけの、失敗作の亡霊だけれども。そんな尊い犠牲を地で行く、政府機密案件の重要被験体となる条件を満たすには様々な審査があったはずなのだが、何せその辺りの記憶は朧気だ。要は、なぜそんな危険な研究の被験体に自ら志願したのか、今の僕にはわからない。というか、自ら志願したのかすらも本当はわからないのだが、もしそうでなかったとしたらそれはもう陰謀論レベルの大犯罪なので、今は細かいことは考えないようにしている。
過去の僕の科学者としての意識が篦棒に高かったことを祈るとしよう。
そうして失った記憶をいつまでも追い求めるほど、僕の頭は感傷的にはなれないらしい。何せ僕はその道の専門家だ。自分の身に起こった事象の意味を、痛いほどに理解してしまっている。そう、これはただの記憶障害などではない。かつての僕を構成していた要素のおよそ半分は、実に不格好、不完全な形で、既にシスカの中へと移ったのだ。
その中にはもちろん、"過去の記憶"なんて構成要素も含まれるわけだが、僕がそれを思い出すことは、もう二度とないだろう。
そんな僕ではあるが、ひとつだけ確かなのは、自分の持つ視覚がとにかく特殊だということだ。
僕が視る"蜃気楼"は、生命体が持つ"感情の機微"をリアルタイムに報せてくれる。
人間種の周りには色とりどりの"胡蝶"が舞い散り、疑似感情を保有する機械種の周りには単一色の、不思議な"魚"が泳いでいる。
彼らが何を感じているのか、僕にはいつも、手に取るようにわかってしまう。
少数の人間種が生まれながらに保有するこういった、いわゆる通常の五感以外の特殊な感覚は、"SUE-D"【Scientific Unexplained Elements of the Deus】と総称されている。まだ文明の発達しきらない古の時代にはオカルト扱いされていたものも多いのだが、要は《ヒトが保有し得る科学的未解明の人体構成要素》のことだ。
これらのマイノリティエレメントをプログラム化し、かの仮想領域上へとアップロードすれば、全ての知的生命体への情報還元が叶う。つまり、保有していない人間とも、"使い方"を共有することができる。
となれば、現代人類の生活に欠かせない、《電子溟海》の名を冠するライフラインネットワーク、謂わば広大な仮想領域上で、我ら人類が享受する利便性は格段に跳ね上がるだろう。そんな風に言われて久しい。
僕の持つ視覚は、科学的には"Type:Synesthesia:code-001"、略称《Ts1》に分類される。
数多の未解明要素の中でも特別構成が複雑な代物だそうだ。
要は、定義しなければいけない情報総量が膨大で、作業が全く追いついていない。
通常の視覚ですら、その昔、"仮想領域上での疑似感覚の実装時"には様々なバグに悩まされたというのだから、まあ、仕方ない。人間種という生き物にとって、"目で見る情報"の価値は、それが実在領域での実体験であろうが、仮想領域上での追体験であろうが、他の感覚を凌駕するほどには圧倒的に重いのだから。
そんなわけで保有者として生まれついた僕も含めて、この超高度文明期の現代においても未だ《Ts1》の完全定義に至った者は出ていない。達成すればおそらくこれも叙勲確定の、定番人気の科学的研究材料、というわけだ。
そんな貴重なサンプルを、かつての僕が、自ら《完全精神移管》と言う形で「シスカ」に差し出そうと試みたのであれば、まあ、ある意味納得はいく。
ちなみに、《完全精神移管》通称《FT-DME》【Full Transfer of Deus Mental Elements】とは機械生命工学研究の一種で、"人間種不死計劃"の最終目標ともいえるものだ。僕が自身の構成要素の47.1%を失った処置でもある。まあ、簡単に言えば、仮想領域上を経由して特定の人間種の意識を機械種に完全移植する行為だ。
機械の身体にヒトの精神、といえばわかりやすいだろうか?
亡き父が叙勲受章に至ったのは、この壮大な研究の基礎理論を確立したからだ。
現行最新型機械種の次世代疑似感情は《限定精神移管》、通称《LT-DME》【Limited Transfer of Deus Mental Elements】という手法で製造されており、彼らには少しではあるが、ヒトの意識が宿っている。ちなみに、被験体からの構成要素の提供割合はせいぜい3%止まりがいいところだ。それ以上は生命の危機に晒されることになる。この僕のように。
まあ、仮にもし成功すれば自分の意識は機械に移って永遠の存在となるのだから、"生命の危機"というのは、少し語弊がある気はするが。
ここで解せないのは、現状、《完全精神移管》の前提条件となる仮想領域上での人体構成要素の完全再現、要は《ヒト一人分の全構成要素のプログラム化》がおそらく不可能だということを、"稀代の天才"と呼ばれたかつての僕が知らなかったわけがない、ということなのだ。
というのも、《電子溟海》には未だ解明されていない上層領域がある。
そこには《仮想領域の始祖、理論提唱者、モルガン・ル・フェイの遺志》が眠り、僕のご先祖様でもあるかの偉大な魔女は、人間種と機械種が争わぬよう、数百年が経った今でも尚、"親愛の呪い"を発動し続けているというのが現世の科学的通説だ。
要は、機械種に特定の"感情エレメント"は実装できない仕様なのだ。問題となるのはいわゆる"悪意"に属する感情定義情報のアップロードなのだが、これらは人間種が機械種を使役する上でかの魔女に有害と見做されてしまうようで、問答無用で《電子溟海》から弾かれてしまう。そんな状態では仮想領域上で特定の人間の意識を完全再現し、それを機械種に移して不死を得るなど、夢の又夢、机上の空論。
だから、《完全精神移管》は確定的に失敗する。要は現状、完全なる自殺行為だ。
そんな《電子溟海》の仕様を知らぬはずのないかつての僕は、なぜ被験体となったのか。
《DEUS CREATOR》の肩書きに目が眩んだのか。かたや誰かに騙されたのか。
自身の以前の人格や交友関係を知らぬ今の僕にはわからない。
果たして真相は闇の中。
そう、四年経った今でも、レンは何も話してくれずにいる。
「あ~、えっとさ。つまりシスカをさ、また“強制終了”しちゃったんだよね。」
アンジェリカは重苦しい沈黙に耐えきれず、半ば強引に話を本題に戻す。
「・・・え、あ、ああ。話題に困って?」
深海の底の青き瞳のその中に“不安”を湛えた挙動不審気味の美青年は、努めて平常どおりに振る舞おうとする目の前の少女のそんな言葉に、ハッとした様子で、慌てて言葉を切り返す。
「そ。要は、逃げたわけだ。"稀代の天才"が聞いて呆れるだろ?彼女の"人間的な"問いに、僕はいつも満足に答えてあげられない。この歳にして、まるで出来損ないの母親にでもなったかのような気分だよ。」
大袈裟に両手を広げておどけた様子で"お手上げ"といったジェスチャーをする彼女のさりげない気遣いに、レンは自嘲気味に微笑み、
「・・・ありがと、アンジェ。」
小さな声で感謝を述べると、もう少しで空になりそうなグラスの中身を一気に飲み干した。
彼はよく知っているのだ。アンジェリカという人物がどれほど精密に他人の感情の機微を察することができるのか。
「君はまったく・・・。人がせっかく話題を変えてやったというのに・・・。」
踏み抜く寸前の地雷を強引に回避したアンジェは、律儀に感謝するレンのその態度を受けて、気恥ずかしそうに、呆れた様子で盛大に溜息をついている。
「なに、誰にだって触れられたくないことのひとつやふたつあるだろう。
心配しなくとも、今の僕は"リトグラフス"の研究以外には興味がない。
わかったらその辛気くさい"胡蝶"をさっさとしまってくれないか。」
少女は普段あまり特殊視野で得た情報を口にはしない。
視えない者にすれば、まるで予言か、超能力か。彼女の目の精度はそういう類の物の見方を可能にするからだ。
突出したマイノリティが気味悪がられるのは世の常で、少女はそういった経験則から他者との距離感を測って、常に言葉を選んできた。その性質は大半の記憶を失った現在も変わることなく、彼女の人格の根幹に染みついているようで、幼少期からそんな不思議な少女と共に育ったレンは、アンジェリカ・ル・フェイという人物の壮絶な苦労を、"今の彼女"以上に、よく知っている。
「あはは、ごめん。だからいきなり呼び出されたのか。合点が行ったよ。」
「そうだ、今日はシスカが夕飯にトマトスープを作ってくれる予定だったのに。」
「わかった、じゃあ今日は僕がアンジェの食べたい物を奢るよ。嫌な胡蝶も見せちゃったしね。
だからそろそろお酒はやめてくれ。また身体を壊すよ。」
少女は19歳、要はギリギリ未成年なわけだが、先ほどまでレンの注文した琥珀色の液体を奪う形で非行に手を染めて荒れていた。
ここは訳ありの人間が集う街、セクトマイノリア。
"分かたれた少数派"といった意味合いの古い言葉をその名に冠する、斜陽の幻影都市だ。
至る所で《電子溟海》の接続を拒絶した結果、外界から遮断され、いつしか地図上からも消えたこの街は、そういった細かいことを咎める人間など本来は居ない、全ては自己責任の、実に殺伐としたアンダーグラウンドな世界だ。
だが、青年はそんな街の性質とは似つかず、常に生真面目に、アンジェリカの体調を気遣っている。俗に言う"職業病"というやつだろうか。
記憶こそないものの、おそらく過去にあったであろう無謀な実験、度を超えた精神移管処置によって瀕死の重傷を負ったらしい少女、アンジェリカ・ル・フェイは、幾多の後遺症を抱えた状態で目を覚まし、四年前から腕利きの闇医者、レン・ミヤムラの患者として友好的な関係性を築いている。
彼は元々非常に優秀な医師の卵で、少女も在籍していた機械生命工学関連の、格式高き政府研究機関の若きホープであったとは、後にとある電子文献にて知る事となった詮無き事実である。
世間的には今も尚指名手配扱いの大量殺人犯として悪名高い、得体の知れぬ青年を、出逢った当初から少女が一切恐れなかった理由は、彼がアンジェやシスカに向ける"胡蝶"があまりにも優しげな色彩を湛えていたことと、大衆には隠され続けた、いわゆる政府機密事項に関する研究内容を、彼女が朧気に記憶していた結果だろう。
彼は幼少時代のアンジェリカとの関係性を"幼馴染み"と称している。
少女にそんな記憶はないわけだが、過去にそういった関係性を築いていたのだとすれば、あとのことは想像に難くない。本来穏やかで優しいはずの青年が、世間で語られるような残忍な殺人を犯すほどの衝動に駆られたのは、どう考えても当時自分が"死にかけた"せいなのだろう、と。科学の発展に非人道的な実験はわりと付きものなわけだが、彼がそんな類の状況を目の当たりにして"瀕死の重要被験体"、しかも"幼馴染み"を見捨てられたとは、今のアンジェリカには到底思えない。
"おそらく、当時、彼の犯した大罪が、今の自分を生かしている。"
青年が日々視せてくれる美しい"蜃気楼"がそう、告げている。
生命体の思考の本質を視る特殊な視覚を持つ少女にとって、目の前の視覚情報は何よりも重要な判断材料で、世間の評価などは割とどうでもいいことなのだ。
「(彼は特に、父さんを殺したことを気に病んでいるみたいだけど。
冷たい話かも知れないが、今の僕には正直他人事としか思えないんだ。)」
レンの殺した被害者のリストの中には自身の父親の名もあった。ただ、"まあ、そうだろう"とは予測していたのであまり驚かなかった記憶がある。
少女の父親は、《電子溟海》の始祖の系譜、名門フェイ家の当主であり、"機械生命工学"の権威として名を馳せた著名人であり、そして、例の"人間種不死計劃"を推進する筆頭格的存在でもあったからだ。
娘であるアンジェリカの身に降りかかったであろう危機的状況が研究中の事故だったのか、そうでなかったのかはさておき、立場上そんなお偉方の"彼"が、結果的にはどんな機械種よりも人に近い"シスカ"を生んだ前代未聞の大実験の現場にいなかったとは考えづらい。
ともすれば、殺戮現場に居合わせたであろう父親という存在が亡くなっていても何らおかしくはないと考えるのは、当時精神移管の後遺症による闘病生活で、失った"人体構成要素の補填作業"、要は調べ物に明け暮れていたアンジェにとっては至極自然な流れだったというわけだ。
そんな少女は実は過去に一度だけ、あまりにも辛気くさい胡蝶を纏い続ける見知らぬ若き主治医に同情してしまったことがあり、「精神移管で失った記憶が戻ることは未来永劫ないのだから、君ももう気にしなくていい」と、科学者としての知識を活かしたカウンセリングを試みたことがあったのだが、慰めのつもりで言ったその言葉には予想だにしない絶望と拒絶の"胡蝶"が返ってきて、以来、少女の中で、"父親、ローグ・ル・フェイに関する事項"は、できる限り避けたい禁句ワードとなってしまっている。
「たまになんだからお酒の一杯や二杯、別にいいだろ?だいたいレンこそ、もうボトル1本空きそうなくらい飲んでるじゃないか。」
「医者の不養生だ」とわめくアンジェの白く小さい手の中から半ば無理やり琥珀色の液体が入ったグラスを取り上げると、
「僕は強いからいいの。」
と言って、度数が高いはずのそれをさらりと飲み干してしまう青年の周りの胡蝶がだんだんいつもどおりの優しい色彩へと戻っていくことに、アンジェは内心の安寧を得るのだった。
シスカと出逢った今の僕は、科学者として充足感に満ち溢れた暮らしを送っている。
レンには、とても感謝している。世間一般の倫理観は、今の僕には響かない。
だからこそ彼の罪は、今はもう、僕の罪でもあるんだ。