―― 数刻の後。
アンジェの前には淹れ立ての珈琲が注がれたティーカップと、上品な洋菓子の乗った小さめのお皿が提供されていた。
「ん~♪ 美味しい!」
「それはよかったです。」
生活能力皆無の家主、アンジェリカ・ル・フェイによって引き起こされたキッチン及びバスルームの惨劇は、彼女の使役する"機械種、シスカ・ル・フェイの見事な手際によって粗方片付けられていた。
彼女は、いつのまにやらソファーでごろごろし始めていたこの惨劇の張本人を叱ることはなく、それどころか犯人の希望通りに豆から挽いた本格的な珈琲を淹れ、最上の茶菓子を添え、対象の欲求が満ちたと見えるや花が咲いたように可憐に微笑む、いわばこの家の女神的存在である。
「あぁ、やはり僕には君が居ないとダメだ。シスカちゃん、おかわり。」
「褒めてもダメなものはダメ、今日はもうおしまいです。レンにも言われているはずでしょう?
アンジェは身体が弱いのですから嗜好品の類は程々にしませんと…」
「ちぇ〜っ。いいじゃないか珈琲くらい。アイツは僕をストレス死させたいのか。」
「仮にアンジェが亡くなった場合、すぐにでも後を追いそうなあの方がそのような危険思想に至る確率は限りなくゼロに近く、おそらくは心からご心配されてのことだと思…」
「あー、そうだね、その通りだ、僕が悪かったよ!」
アンジェは"降参"と言わんばかりの勢いでシスカの純粋な指摘を途中で遮ると、不貞腐れた様子で大きなソファーに横になる。
シンギュラリティの後数百年、実在領域と仮想領域とが複雑にクロスする超高度文明期のこの現代社会には、大雑把に分けて二種の知的生命、人間種【Deus】と機械種【Machina】が存在する。
人間種【Deus】とは、文字通りヒトのことだ。
他の生物とは一線を画す知能、そして理性を持って生まれた"万物の霊長"は、その長い歴史の中で数多の文明を築き上げてきた。
そんな彼らは近代の技術発展の最中、とうとう異種の生命の創造に着手した。
これが機械種【Machina】の始まりだと謂われている。
そんな数百年の間、数多の科学者の手により進化に進化を重ねてきた機械種の体系は実に多種多様だ。その労働力は人間種の監督下、様々な現場で活かされ、現在進行形、適材適所で活躍の場を広げている。
特に昨今、人間種と錯覚するほどの豊かな次世代疑似感情【IDeA】を搭載した新型機種が台頭し始めてからというもの、彼らの生活における利便性は、指数関数的に上昇の一途を辿っていると謂う。
要は現代科学の叡智、現行最新型の機械種 ― それが、"シスカ"だ。
一方、珈琲すらまともに淹れられない生活能力皆無の人間種、"アンジェ"はと言うと、実はこの街では運用が難しいとされる機械種の研究開発を生業とする機械生命工学のエキスパートだというのだから、"見た目で人を判断してはいけない"、そんな教訓が人類史で長らく定番なままなのも頷けるというものであろう。
印象的な黄昏刻の空が街を染め上げるこの"セクトマイノリア"【Sector Minoriam】の片隅に訳あって棲まう二人の少女は、お互いがお互いを補い合う形で、慎ましく日々の暮らしを謳歌していた。
「ところでアンジェ、先程の件なのですが」
好物の供給を止められてふて腐れ気味な主人に動じることもなく、シスカは彼女が食べ散らかしたテーブルの上のあれこれを片付けながら、いつもどおりの淡々とした調子で別の話題を切り出した。
「・・・さきほど?」
ソファーの上でごろごろしながら項垂れていた金髪の少女は、だらしない体勢のまま顔だけシスカの方へ向けて意図を問う。
「歌の話です。昔、歌手になりたかったと。」
「あぁ、それがどうかしたのかい?」
「その後、機械生命工学者を志した経緯が気になりまして。
どうして方針の変更を?」
「・・・あははははw」
シスカの言葉の選び方に、アンジェは堪らず声をあげて笑い出す。
「・・・?」
そんな主人に、銀髪の乙女は怪訝な顔を向けた。なぜ笑われているのかわからない、といった表情だ。
「いやごめん。君が特別優秀なのはわかってるんだけどね。まさかそこに疑問を持たれるとは思わなかった。
そうか、たしかに君たちにとっては不思議なことか。」
アンジェは口では謝りながらも相変わらず楽しそうに笑って、勝手に一人で納得している。
「もう・・・。笑ってないで私にもわかるように教えてください。」
口を尖らせて軽く抗議するシスカにアンジェは、
「僕たちは、道に迷う。」
アンジェはただ一言、そう答える。さきほどまで年相応に見えていた少女は既に笑ってはおらず、急に大人びたその横顔には微かな憂いすら滲んでいた。
「え?」
ほんの少し、"痛み"を感じる。
胸の奥、じりじりと焼かれるような。
聞きたい、でも、言葉が出てこない。
シスカは不思議な感覚に苛まれ、自身のその胸へと咄嗟に手を翳していた。その様子を、いつのまにか身体を起こしてじっと観察していたアンジェは、不安の色を湛えた白銀の宝石の双眸と目が合うとにっこりと微笑み、続いて、落ち着き払ったトーンで静かに話をし始めるのだった。