男は非常に急いでいた。
黄昏が染め上げる夕暮刻の交差点をひたすらに駆ける。もうすぐ夜を迎える幻都セクトマイノリアの街並には、徐々にけばけばしいネオンが灯り始め、その光に呼応するかのごとく行き交う人々の騒めきも増していく。
彼は息を切らしながらもさらに速度を上げる。鮮やかな街の色彩とは対照的に、漆黒色の髪と、深海の底を想わせる落ち着いた青の瞳が美しい細身の青年の額には汗が滲んでいる。そうして赤になってしまった信号を無理やり渡った彼はというと、交差点を走ってきた車と危うく衝突しかけ、そしてけたたましくクラクションを鳴らされたわけなのだが・・・。
そのフロントガラスの中の怒りに向かって両手を合わせるジェスチャーで謝意を伝えはするものの、それでも足を止めようとする気配はまったくない。
次の角を曲がった先に、彼の求める少女は居た。人気の少ない道の端で、その華奢な身体を少し前へ傾けて項垂れている。
青年の足が、止まる。
暫くは少女との距離を詰めず、あがった息を整える間、彼はただただその姿を見つめていた。
「…?」
遠くの少女はそんな彼に目敏く気付き、ゆっくりと青年の方へ向かい始める。
「(相変わらず、気付くのが速いや。)」
青年はまだ苦しい呼吸を無理やり整えつつ苦笑を浮かべると、その端正な顔の横で軽く手を振りながら、少女と同様の速度で歩み寄っていく。
「アンジェ。」
「やぁレン。ゆっくりでいいって言ったのに。まさかずっと走ってきたのかい?」
"呆れた"と言った表情をした、妙に察しのいい少女に即ここまでの行動を言い当てられて、青年は頭に片手をやると、少し困ったような表情で優しく微笑む。
「君から呼び出しなんて珍しいからびっくりして。
・・・大丈夫? 少し顔色が悪いね。どこかつらいなら診ようか?」
「大丈夫だ。"そういうの"じゃない。ちょっと蜃気楼に酔っただけだよ。」
「君は過保護だ」と言葉を続けて、自身の額へと心配そうに伸ばされた彼の骨張った大きな手を軽く払うと、金髪翠眼の少女、アンジェリカ・ル・フェイは独りで足早に歩き出す。
そうして合流早々邪険に扱われた青年、レンの様子が変わることは特になく、
相変わらず穏やかに微笑む彼は、美しい金色の髪を揺らめかせてそそくさと歩く少女の後をついていく。
「それでこっちで待ってたの? 今日は大通り人多いもんね。」
少女に“レン”と呼ばれた青年は、彼女の隣に追いつき並ぶとそんな風に言いながら、まるで持つのが当然といった様子で少女の小さな右手が持つ重そうな荷を受け取ろうとする。
「大丈夫だって言ってるだろ、子供じゃないんだから自分で持…」
「いいからいいから。」
穏やかなトーンで、しかしきっぱりとアンジェの抗議を遮った青年は、体調が優れない様子の華奢な少女が持っていた紙の袋を有無を言わさず取り上げてから、爽やかな笑顔を浮かべてみせる。
手ぶらになったアンジェは、そんな彼を再び"呆れた"といった表情で見上げると、ふいっと目を逸らして、
「感謝する。」
小さな声で、ぶっきらぼうに謝意を述べた。
青年はクスッと笑うと「どういたしまして」と返して、まだ少し顔色の悪い少女と、同じ速度で目的地へ向かって歩き始めるのだった。